大阪地方裁判所 昭和56年(わ)2430号・昭55年(わ)4251号 判決
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【説明】
追突事故事案における、むちうち症発生の有無、程度についての認定は、実務上一個の問題である。本判決はその点に関する事例として参考となろう。なお、被害者の受傷についての被告人の認識の有無に関する判示部分については、これを認める被告人の捜査段階の供述を信用性なしとした経緯及び、事故の状況が、追突により前車両が約四メートル押し出されかつ両車両に若干の損傷を生じる程度のものであつたと認定しながら、その程度の事故で人の受傷を生ぜしめるのが通常であるとまでは言いがたいとした点のいずれについても、その当否につき議論のわかれるところではあり得よう。
【判旨】
(罪となるべき事実)
被告人は、
第一 自動車運転の業務に従事するものであるが、昭和五五年九月一六日午前一時四〇分ころ、普通貨物自動車(軽四)を運転し、大阪府東大阪市寿町一丁目七番一六号先の交通整理の行なわれている交差点にさしかかり、同交差点手前で信号待ちのために一時停止したのち、北から南に向かい直進するにあたり、前方で同じく信号待ちのため停車していた湯地徳(当時三八歳)運転の普通乗用自動車の後方約2.6メートルの地点に停車していたのであるから、同車の動静を注視し、その安全を確認して発進し、事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、同交差点の西南角の西行信号が赤色になつたのを見て、自車の対面信号がすぐ青色になり、湯地運転の車両も発進するものと軽信し、同車の安全を確認することなく時速約一〇キロメートルで発進進行した過失により、なお信号に従い停車したまゝであつた湯地運転車両の後部に自車前部を追突させ、よつて同人に加療約二週間を要する頸部捻挫の傷害を負わせた、
第二 前記日時場所において、前記のとおり交通事故を起こしたのに、その事故発生の日時場所等法律の定める事項を、直ちにもよりの警察署の警察官に報告しなかつた、
第三 前同日午前一時五三分ころ、同市柏田東町一二番二〇号先道路において、前記湯地運転車両の同乗者今井康彦(当時三七歳)から、前記交通事故を起こして逃走したことにつき追及されたことに立腹し、同人の左前腕部に咬みつき、よつて同人に全治約一週間を要する左前腕部咬創の傷害を負わせた、
第四 昭和五六年六月一五日午前〇時三五分ころ、東大阪市若江西新町二丁目一番地先道路において、酒気帯び、呼気一リットルにつき0.45ミリグラムのアルコールを身体に保有する状態で、普通貨物自動車(軽四)を運転した
ものである。
(証拠の標目)<省略>
(訴訟関係人の主張に対する判断及び一部無罪の理由)
一被告人、弁護人は判示第一の事実につき過失の態様及び傷害を与えたことを争う旨、判示第二の事実中救護義務違反の点につき傷害を与えたことの認識はない旨、判示第三の事実について正当防衛である旨を各主張し、一方、本件公訴事実には判示第一の罪につき、被告人は判示の追突により湯地徳運転車両の同乗者今井康彦にも加療約二週間を要する頸部捻挫の傷害を与えた旨、判示第二の罪につき、判示の報告義務違反のほかに、直ちに負傷者の救護等法律の定める必要な措置を講じなかつた旨の各事実が附加されているので、以下これらの諸点につき順次判断を示すこととする。
二まず判示第一の過失の態様につき、被告人らは、クラッチペタルから足を外したとたん車が飛び出したので止めようと思つてブレーキペタルを踏もうとして誤つてアクセルペタルを踏み、本件追突事故を発生させた旨主張するところ、前掲の関係各証拠によれば、被告人は、捜査段階の当初「信号待ちのため左足でクラッチペタルを踏み、右足でブレーキペタルを踏んで車を止め、エンヂンのかかつたままブレーキペタルから足を離し、同乗者と話し中、チェンジをローに入れていたのをニュートラルに入れていると感違いし左足をあげクラッチペタルから離したとたんに車が飛び出して追突した」と供述していたが、そのような状態ではすぐにエンストを起こして車が停止することを指摘されたためか、捜査の最終段階では、判示のとおり供述するに至つたもので、ブレーキを踏もうとして誤つてアクセルペタルを踏んだという弁解は捜査段階では何等なされておらず、本件の第一回公判期日における認否の際も「ニュートラルにしたつもりでクラッチペタル(ブレーキペタルと云つていたのを後に訂正)から足を外したとたん発進した、しかしその際アクセルをブレーキと間違えて踏んだかもわかりません」と述べ、確定的に誤つてアクセルペタルを踏んだとは弁解していない。確かに被告人は第五回公判期日においては右主張にそう供述をしているが、もしそれが真実なら、捜査段階でそのことについて何ら供述せず、また第一回公判期日においても確定的にそのように供述しなかつたのは不自然であり、また司法警察員作成の被疑車両の発進についてと題する捜査報告書によれば、被告人運転の本件車両を使用し、アクセルペタルを踏み込まないでクラッチペタルから足を離す実験をしてみた結果、車体が少し進んでエンジンが止まることが認められ、仮に被告人の弁解するようにクラッチペタルから足を離して車が動き出したとしても、止めようとしてあわててブレーキを踏まなければならないような状況にあつたとは認められず、これらを総合すると被告人らの前記主張はとうてい認めることができず、捜査の最終段階における被告人の供述は、前掲各証拠に照らしても信用できるので、判示のとおり認定するのが相当である。
三ついで弁護人らは判示第一の傷害の点につき、本件追突は極めて軽微な衝撃を与えたに過ぎず、頸部捻挫の発生する余地がない旨主張するが、鑑定証人佐々木綱の当公判廷における供述及び同人作成の鑑定書によれば、被告人運転車両は急発進して約2.6メートル前方に停止中の湯地徳運転の車両に時速13.9キロメートルの速度で追突する可能性があり、そのとき被害者の受ける衝撃は2.1G程度で、湯地運転車両が被告人車による追突によつて押し出される距離は、運転手がブレーキを踏んでいるとき2.7メートル以下、ブレーキを踏んでいないときは6.8メートル程度になるというのであるから、追突された瞬間ブレーキペタルから足が離れ、そのあとブレーキペタルを踏み約四メートル前進して停止したという第三回公判調書中の証人湯地徳の主尋問での供述部分及び司法警察員作成の実況見分調書(検察官請求番号7)中の同人の四メートル押し出されたという指示説明部分は、いずれも信用でき、右鑑定結果等を前提とした鑑定証人杉本侃の当公判廷における供述及び同人作成の鑑定書によれば、本件事故の場合、いわゆる「むち打ち症」が生ずる可能性は否定できないというのであつて、本件事故により頸部捻挫の生じる可能性のあることが認められるところ、第二回公判調書中の証人牧野光夫、第三回公判調書中の証人湯地徳の各供述部分、医師牧野光夫作成の診断書(検察官請求番号3)を総合すると、判示第二のとおり被告人が本件事故により湯地徳に加療約二週間を要する頸部捻挫の傷害を負わせたことを優に認めることができる。
ところで、公訴事実によれば本件事故により湯地運転車両の同乗者今井康彦にも加療約二週間を要する頸部捻挫の傷害を与えたというのであるが、医師牧野光夫作成の診断書(検察官請求番号4)によれば、同人も頸部捻挫により約二週間の通院加療を要する見込みの診断となつているが、第二回公判調書中の証人牧野光夫の供述部分によれば、診察時右今井は頸部の硬直と吐き気を訴えており、レントゲン検査では骨の異常がなく他覚的症状については乏しいが前記診断書のとおり診断したというのであつて、その診断の根拠は主として患者の訴えによるものであるところ、第四回公判調書中の証人今井康彦の供述部分によれば、医師のところへ行つたのは警察の方から行こうと云われたからで、同証人の方から積極的に治療を受けに行つたものではなく、また以前に首を痛めて一〇日ほど入院したことがあり、その後も首が突つ張るような気がしていたので医師から詰問され、云われてみれば首が突つ張るような気もしないではないと答え、また吐き気についてはそのとき酔つていたから、はつきりしないがそれを訴えた記憶はなく、治療を受けたのもそのとき一回だけでその後は全く治療を受けず、同証人自身は本件事故により頸部捻挫の傷害を受けたとは思つていないというのであり、同証人が証言した昭和五五年一二月五日の時点で同証人は被告人から見舞いを受けたり慰謝料を貰つたような事情はなく、牧野病院での同証人の治療費もその後の昭和五六年二月七日になつて被告人から病院の方へ支払われていることが認められること等を総合すると、同証人がことさら真実に反してまで被告人のために有利な証言をしなければならない理由は見出しがたく、右証言は信用できるといわなければならない。そうすると、右牧野医師の診断結果をそのまま肯認することは困難であり(当時のカルテに今井が吐気を催した旨の記載はあるが、当時同人は飲酒していたのであるから、直ちに頸部捻挫に結びつけることはできない)、結局右今井に対する傷害の点については犯罪の証明が充分でないことに帰するが、この点は判示湯地徳に対する業務上過失傷害の罪と観念的競合の関係にあるとして起訴されたものと認められるから、主文において特に無罪の言渡しはしない。
四次に、判示第二の事実につき、救護義務違反の成否、すなわち被告人が被害車両の乗員に傷害を与えたことの認識を有していたか否かの点について判断する。まず被告人の検察官に対する供述調書によれば、「衝撃は相当大きくそのため私の車の前部が大きく毀れ相手の車の後部もこわれました、そのため相手の人がむち打ちか何かの怪我をしたなとすぐ思いました」旨の供述記載があつて、被告人が人の負傷の事実を推測・認識していたことを窺わせる一応の証拠は存在する。しかし司法警察員作成の加害車両の写真撮影についてと題する報告書によれば、本件追突により被告人車の前部バンパー左右と中央部三ケ所がそれぞれ若干凹損し、ボンネットとフェンダーに二ないし三センチメートルのひずみが生じていることが認められるが、大きく毀れているような状態ではなく、被害車両の方も右後部のテールランプが破損し、後部バンパーが少し凹損している程度であること、第三回公判調書中の証人湯地徳の供述部分、司法巡査作成の現行犯人逮捕手続書、稲村武二の司法警察員に対する供述調書、被告人の司法警察員に対する昭和五五年九月一六日付供述調書等によると、事故直後被告人と右湯地が本件事故現場でやりとりした際、湯地は怪我をしたということは勿論、首筋がおかしいというようなことも一切被告人に訴えておらず、もつぱら湯地運転車両の損害の弁償のことが話し合われただけであることが認められるに過ぎないこと、それに本件は、約2.6メートル後方に停止していた車両重量五四〇キログラムの被告人運転軽四輪貨物自動車が、車両重量一三七五キログラムの被害車両に、判示のいきさつで追突した事故であること等を総合すると、被告人の右検察官に対する怪我を与えたと思つたという供述は、前部が大きく毀れているとする捜査官の誘導に従つてなされた、被告人の真意に反する供述との疑いが強く、これをそのまま信用することはできず、また、本件のような態様・程度の追突事故では、一般的に人に受傷を生ぜしめるのが通常であるとまではいえないとするのが相当であるから、被告人が人の負傷の事実を未必的に知つていたと認定するのも困難である。したがつて救護義務違反の点については犯罪の証明がないことになるが、右は、判示報告義務違反の罪と観念的競合の関係にあるとして起訴されたものと認められるから、同じく主文においてこの点の無罪の言渡しもしない。
(高橋金次郎 横田勝年 浦上文男)